Profile

ポール・マッカートニー

★ポール・マッカートニーアーティスト詳細へ

1940 生い立ち〜少年時代
1942年6月18日、リヴァプール生まれ。父親の名前はジェームズ(ジム)。母親の名前はのちに「レット・イット・ビー」の歌詞のなかで「マザー・メアリー」として登場するメアリー。メアリーは看護婦で、ポールが生まれた病院の婦長をしていたこともあった。ジムは当時、綿花のセールスマンだったが、17歳のときに結成した「ジム・マックス・バンド」で活躍するピアニスト兼トランペッターでもあった。そのせいで家にはピアノがあり、休日にポールは父親の弾くピアノを楽しんだ。これがのちの自分の音楽的才能に多大な影響を与えたとポールは語っている。
1954 母の死〜音楽への目覚め
リヴァプール・インスティチュートに在学するポールは成績も良好で、健全な学校生活を送っていた。父親にならってトランペットを始めるが、吹きながら歌を歌えないのが悩みだった。そこで、ギターに転向。しかし、最初はまったくうまくいかなかった。しばらくして、ポールは左利きの自分は右利きの人とは逆さまにギターを持たなければならないことに気づき、コツを飲み込むと、めきめき上達していった。ポールとギターの結びつきを決定的にしたのは、皮肉にも14歳のとき母親が癌で死亡したことで、ポールは気が滅入らないようにギターに没頭し続けた。「トイレに入っているときさえギターを持っていた」と弟のマイケルが語っている。
1957年7月6日、友人に誘われて観に行ったクオリーメンのライヴで、フロントでバンジョーのコードを弾きながら独自の替え歌を歌うジョン・レノンに興味を持つ。舞台裏でジョンに紹介され、「トゥエンティ・フライト・ロック」をギターの伴奏と歌はもちろん、歌詞も完璧に弾き語りしてみせ、ジョンを感服させる。その後、ジョンからの誘いでクオリーメンに加入する。
1962 作曲〜初期ビートルズ
オリジナル曲をすでに作っていたポールは、ジョンを誘い、共作で作曲活動に勤しんだ。レノン=マッカートニーの誕生である。ポールはクオリーメンを改善させるべく、以前からの友人だったジョージ・ハリスンをクオリーメンに加入させる。音楽的にほかのメンバーより抜きん出ていたポールは、いつもバンドの音楽的向上に力を注いだ。ジョンの親友だったスチュアート・サトクリフがベーシストとなったが、画家を目指すスチュアートはバンドを脱退。ギタリストを夢見ていたポールだが、ジョンもジョージもその座を譲る気はなかったため、渋々ベーシストに転向する。さらに、サウンドがもの足りないと感じると、ときとしてドラムを叩いたり、ピアノを弾いたりと、すでにデビュー前からマルチ・プレイヤーぶりを発揮していた。デビュー曲はおもにポールが手がけた「ラヴ・ミー・ドゥ」だった。当時のミュージック・シーンの中心はラジオとコンサートで、1962年のデビュー後もステージでメンバーをもりたて、コンサートの流れを索引していた天性のショー・マン、ポールの貢献は大きい。作曲面では、レノン=マッカートニーで「フロム・ミー・トゥ・ユー」「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」といったこれまでにない斬新な楽曲を次々とヒットさせた。おもにポールが手がけた楽曲に「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「オール・マイ・ラヴィング」「キャント・バイ・ミー・ラヴ」などがあり、ポールは50年代のロックンロールの進化型と言える、シンプルだがヒネリのあるロックンロールを量産した。これは、ポールが早くからソングライターとしてすぐれていたことを如実に表している。レパートリーもテンポの早い曲ばかりだと観客に飽きられると、「蜜の味」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「アンド・アイ・ラヴ・ハー」など、スローな曲も取り入れ、トータル・プロデューサー的な面ものぞかせている。
1965 イエスタデイ〜ビートルズ中期
1965年に、夢の中でメロディが沸き上がってきた「イエスタデイ」を作曲。ほかのメンバーも完成度の高い楽曲だと感じ、「ソロで出したほうがいい」とアドヴァイスする。しかし、バンドとロックンロールを何よりも愛するポールは、結果的にビートルズのアルバム『ヘルプ! 4人はアイドル』のB面にひっそりとこの曲を収録し、本国イギリスではシングル・カットもさせなかった。しかし、アメリカで(日本でも)シングル・カットされたこの曲は売れに売れ、ポールのイメージ・ソングとして定着してしまった。生粋のロックンローラーであるポールは今もこのイメージばかりが強調されることに憤ることが多いという。「アイム・ダウン」「ヘルター・スケルター」「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「バースデイ」など、ハードなロックをポールは何曲も生み出しているのだ。
1964年、前人未到のアメリカ制覇を成し遂げ、ワールド・ツアーも大成功に終わったビートルズ。しかし、コンサート自体は音楽がファンの悲鳴にかき消されるという想像を絶するもので、すでに社会現象にまでなっていたビートルズのコンサートに便乗し、各地でさまざまな事件、暴動も起こるようになっていた。ジョンはこの状況に常に疑問を持ち続け、当時、スターが発言するのは御法度だったベトナム戦争についても積極的に語ろうとしていた。無意識のうちに矛盾を抑えきれなくなったジョンは、1965年に問題作「ヘルプ」を発表。1966年にツアー活動をストップすると、いち早く映画『ジョン・レノンの僕の戦争』に出演するなど、音楽以外の場所でも常に自分を模索し続けた。
1971 ウイングス
「ロールス・ロイスよりバンドを選ぶ」と語るポールにバンドの存在は必然で、1971年にウイングスを結成、アルバム『ワイルド・ライフ』を発表する。バンド・デビューはビートルズの名声を意地でも利用しないという、その当時のポールの心境をよく表したもので、アポなしで行き当たりばったりの大学をツアーしてまわるというものだった。1973年のアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の先行シングルとしてリリースされた「マイ・ラヴ」が全米No.1、アルバムもビルボードで連続No.1を獲得し、ポールの才能を見せつけた。波に乗ったウイングスは次のアルバムのレコーディングに入る。ウイングスはポールと妻のリンダ、そしてデニー・レイン以外のメンバーは流動的だったが、このレコーディングの直前、ついに3人だけとなってしまう。バンド存続の最大の危機が訪れるものの、アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』(1974年)が全英、全米でNo.1、そして1975年のグラミー賞を受賞した。勢いに乗ったウイングスは念願のアメリカ・ツアーを成功させ、室内コンサートの動員記録を塗り替えた。このコンサートはアルバム『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』(1976年)で聴くことができる。1977年に発表したシングル「夢の旅人」は、ついにビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」が保有していたシングル売り上げ記録を上回るヒットとなった。名実ともにビートルズの影を振り払ったウイングス。しかし、1975年に中止となった幻の日本コンサートを1980年に実現しようとするも、大麻不法所持でポールが拘束され、中止になってしまった。ウイングスはこれを境に徐々にフェイド・アウトしていく
「ビートルズを辞める」と最初に発言したのもジョンだが、脱退宣言をマスコミに公表したのはポールで、バンドの創設者だったジョンは大きなショックを受けることになる。
1965 ビートルズ解散〜ソロ時代
1966年にツアー活動を停止したビートルズはスタジオを中心としたレコーディング期に突入する。1967年にはポールの自信作『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』発表。1968年にはビートルズ自身のレーベル、「アップル」最大のヒット・シングルとなる「ヘイ・ジュード」も発表する。1969年に「そろそろコンサートをやってみてはどうか?」というポールの意見で、コンサートへの希望が再燃する。しかし、ジョージの猛反対でどこかの会場でコンサートをする夢は断たれた。その後、リンゴの助け舟によりジョージが折れ、自社であるアップル・ビルの屋上でライヴが行なわれることになり、アルバム『レット・イット・ビー』にも「ゲット・バック」や「アイヴ・ガッタ・フィーリング」など、ポールのすばらしいパフォーマンスが残されている。このアルバムでは「レット・イット・ビー」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など、のちのマスターピースとなる楽曲も生まれた。ジョンの発言によりビートルズ解散がほぼ決定的となった直後も『アビイ・ロード』制作の指揮をとり、アルバム後半をメドレーにするという斬新なアイデアを実現している。その後ポールは、事実上解散しているバンドに引導を渡すべく、みずからマスコミに脱退を表明するという強行手段をとり、ここから孤立していくことになる。ポールは1970年のソロ・デビュー作『マッカートニー』をたったひとりでレコーディングするという一見無謀だが、アーティストとして勇気ある創作行動に出た。翌年、ポール&リンダ・マッカートニー名義で発表された『ラム』は、現在でも信奉者の多い伝説のアルバムである。
1980 1980年代
思わぬことで自身の音楽活動を見直すことになったポールは、最新のシンセサイザーに可能性を見つけ、単独でレコーディングに入る(『マッカートニー II』として発表)。その後、1972年の「007/死ぬのは奴らだ」以来、ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンと組み、「ウィ・オール・スタンド・トゥゲザー」をレコーディング。そんな矢先にジョン・レノンの訃報が飛び込む。ふさぎ込むポールだが、母親の死と同様に、ポールを正気に保たせてくれるものは音楽しかなかった。1982年、『タッグ・オブ・ウォー』を発表。その緻密なサウンドとポールのメロディが織りなす音世界は、新しいマッカートニー・ブランドを確立し、各方面から絶賛される。そして同年、リンゴ・スターの結婚式に参加し、ビートルズのメンバーとの旧交を温めた。1983年には『タッグ・オブ・ウォー』の兄弟アルバム『パイプス・オブ・ピース』を発表、1984年にはポール自身が監督・脚本・主演を果たした映画『ヤァ! ブロード・ストリート』のサウンドトラックを発表。ビートルズの曲を初めてカヴァー・レコーディングした。新しい自分を確立したことで、ビートルズのキャリアを素直に取り込めるようになったポールは、次に1985年の「ライヴ・エイド」でステージに戻ってくる。1987年には『オール・ザ・ベスト』で1970年からのソロ活動を総括した。1989年にはビートルズ時代の愛器、ヘフナー・ベースを復活させ、エルヴィス・コステロをゲストに迎えた『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を発表。満を持して大規模なワールド・ツアーを開始する。
1990 1990年代
1990年3月から悲願の来日公演達成。1989年からスタートしたこの一連のツアーでは多くのビートルズ・ソングも演奏され、『ポール・マッカートニー・ライヴ!!』で聴くことができる。1991年にはMTVの『アンプラグド』に出演し、アコースティッ ク・ライヴを披露(『公式海賊盤』収録)。さらに、念願の本格的クラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を発表するなど、ポールの音楽への意欲はとどまることを知らなかった。1993年にはツアー・バンドとともにレコーディングした『オフ・ザ・グラウンド』を発表、そのアルバムを引っさげてニュー・ワールド・ツアーを敢行(『ポール・イズ・ライヴ』収録)、再来日公演を果たした。同年にはファイアーマン名義で『ストロベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレスト』を発表、アンビエント・ミュージックにも挑戦した。順風満帆に見えたポールの活動だが、公私ともにポールを支え続けてきた最愛の妻リンダが癌であると診断される。ポールは悲しみを受け止め、リンダとともに、1997年『フレイミング・パイ』を発表。アコースティックな雰囲気と、リンゴ・スターも参加したことでビートルズ色の強いアルバムと位置づけられた。翌1998年にリンダが他界。1999年には、リンダとともに考えていた企画であるロックンロール・カヴァー・アルバム『ラン・デヴィル・ラン』を実現させた。
2000 2000年代
絵画、詩集(『ブラックバード・シンギング』)と、新しい分野でも可能性を発揮したポールは、娘メアリー夫婦とともにウイングスパン・プロジェクトを始動。リンダとの活動とウイングスを総括した。2001年、ビートルズのデビュー・アルバムで用いたライヴの一発録りレコーディングを踏襲し、『ドライヴィング・レイン』発表。9.11のテロ事件後のアメリカを元気づけようと「コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」を主催、そして翌2002年、全米ツアーへと飛び立った(『バック・イン・ザ・U.S. - ライヴ2002』)。ツアーが終わると元モデルのヘザー・ミルズと再婚、続いて日本公演を実現させる。その後も2004年にヨーロッパ・サマー・ツアー、2005年にニュー・アルバム『ケイオス・アンド・クリエーション・イン・ザ・バックヤード〜裏庭の混沌と創造』を引っさげ、全米ツアーを行なうなど、ポールは現在も休むことなくコンサート活動、創作活動に勤しんでいる。